大洲の昔
【デルタがつくった大きな洲】
郷土史家 鈴木和明
(市川市新井在住)
市川市の中で国府台地域を古来の「元町」と表現するならば、国道14号線から南の地域は「新開地」と言っていいでしょう。
真間の手児奈の伝説が生まれた時代、古に山部赤人や高橋虫麻呂らが盛んに真間の手児奈の歌を詠んだ西暦700年前後の奈良時代は、太日(ふとい)川と言われた江戸川は大河であり、真間の湊には大船が出入りしていました。
当時、真間から下流域は太日川が形成した三角洲がいくつも広がっていたと考えられています。現在の大洲地域を中心とする一帯の前身です。それは氾濫を繰り返す太日川が作り出した自然堤防と言われる標高1〜2mほどの地域と考えられています。今の本行徳辺りにあった河口からたくさんの船が通り三角洲の間を通って真間の湊を目指したことでしょう。また、北九州の国境警備に赴いた葛飾郡の防人たちは、真間湊を船で出発し三角洲の間を下がって東京湾に出て三浦半島へ向かったのです。
平安時代中期、西暦935年(承平5年)頃、平将門謀反という奏上が源経基から朝廷に出されました。将門は桓武天皇の5代の孫に当り、祖父高望王のときに平の姓を賜り上総介となり、父は坂東の鎮守府将軍平良将で、将門は京都の摂政藤原忠平に仕えて下総に戻って茨城県(常陸国)の南部を根拠地として勢力を振るっていました。
西暦940年(天慶3年)、平貞盛は平将門降伏の祈願を込めて現大洲3丁目6番地先の対岸、東京都江戸川区上篠崎1丁目22番の浅間神社に金幣と弓矢を奉納しました。また、成田山新勝寺の不動明王像は将門調伏のために安置されましたが、それと同じ木で作ったもう一体の不動像が菅野の不動院に安置されました。
将門の西暦940年2月14日に藤原秀郷に討ち取られましたが、この故事からわかることは、不動像を安置した場所と弓矢を奉納した場所が、太日川を挟んで両岸から川を上り下りする船を見張ることができた場所に位置していたということです。この時代でも大洲の地域には人家や農耕地はなかったようです。
江戸時代になって大洲の地域は一躍脚光を浴びることになりました。徳川幕府により行徳の塩田開発が大規模に進められ、その結果、塩焼の燃料として葭・萱が大量に必要とされるようになったからです。そのため江戸川の三角洲が行徳の塩垂百姓(塩焼を本業とする百姓)によって開発されました。
西暦1702年(元禄15年)8月の本行徳村検地帳によれば、本行徳村の水田の合計は84町3反8畝(25万3,140坪)で、そのうち本行徳村内の字は「村回り」と「河原境」の二つだけで1町9畝28歩(約1.3%)のみであり、残りは現在の京葉道路の北側に位置していました。
それらの字名は「外大洲」「内大洲」「下沼」「上沼」「中洲」「外野」などでした。外大洲は現在の大洲2丁目と3丁目、内大洲は大洲1丁目と4丁目にあたります。中洲は外大洲と内大洲の間と考えられ、外野は現在の大和田5丁目地域の大部分に当たります。上沼は八幡2丁目8番付近に上沼という旧字地がありましたが詳細は不明です。下沼は東大和田1丁目と2丁目地域に当ります。
畑地については外大洲と内大洲には全体の約8.1%2町2反6畝1歩しかありませんでした。本行徳村にはその外に「立野」といわれた現在の大和田2丁目13〜25番地域も含まれていました。
このような水田地帯には上下妙典村、河原村、下新宿村などの飛び地の字もありました。上下妙典は現在の大和田4丁目、河原は大和田3丁目と5丁目の一部、下新宿は大洲2丁目に含まれています。
江戸時代には一本松から国道14号線(千葉街道・佐倉道)に通ずる「新道」を通行する旅人は、新道の両側に広がる「万石の眺め」と呼ばれた近郷にも珍しい水田地帯の景色を堪能しながら旅をしたのです。
西暦1889年(明治22年)、町村合併により東葛飾郡行徳町大字行徳字内大洲・外大洲となりました。1955年(昭和30年)3月31日、市川市に合併し大洲町となりました。しかし、合併に際しては大洲在住の町民512名が市川市との合併請願書を行徳町議会に提出しました。
その後、1968年(昭和43年)住居表示実施により大洲1〜4丁目となりました。

資料は「市川まちの地名の由来No.18」を参考
大洲自治会50周年記念誌 「明日に向かって 大洲」より
